鰐とすき焼き

夢回廊② 鰐とすき焼き

 夢が変わる。
 庭に鰐が居た。決して駄洒落ではない。
 確かに縁側の向こうに赤い鰐が居座っていて、家の中で身を竦めている我々をじっと睨みつけている。実にふてぶてしい顔で睨みつけている。
 あの鰐は我々一家を食いつくそうとしている。
 それは絶対的真実であると私は確信する。
 庭に鰐が居るのだから、我々は家に巣篭もっている方が得策だ。
 おそらく誰しもそう思うだろう。
 しかし、そうはいかない。
 何故なら我が家の本日の夕食はすき焼きだからだ。
 そして、我が家はまだ肉を手に入れていない。
 私は一家の主である。たかが鰐ごときのために、すき焼きを諦めるわけにはいかんのである。決してあってはならないことである。育ち盛りの息子たちには、何が何でも上等の肉を食わせてやらねばならない。
 私は腕組をして、じっと鰐を睨みつけてやった。
 無論、鰐とはなるべく距離を取り、部屋の奥の襖に背をつけて睨んでいたのである。
 鰐が大きな口を開けた。鋭い歯が奥までずらりと並んでいた。
 私は迂闊にも怯んでしまい、後ろ手に襖を開けて奥の部屋へと逃げ込みたい衝動に駆られたが、辛うじて踏み止まって一家の主としての面子を保った。
 お前などに負けるものか。絶対にすき焼きを食ってやる。
「おい、おまえ。早く肉を買って来なさい」
 私は妻に命じた。買物は妻の役目である。昔からそうと決まっている。
 しかしながら妻は明らかに不満気な表情で私を見て反論する。
「嫌ですよ。鰐がいるんですよ。どうして外へ出かけられましょう?」
「私がここで鰐の注意を引いておくから、その隙に玄関から出れば良い」
 という見事な作戦を提案したのに、
「絶対に嫌です」
 妻は断固として拒絶した。
 私は途方に暮れた。肉無くして、どうしてすき焼きが食べられようか。
「おい、おまえたち」
 私は二人の息子に声を掛けたが、
「あなた!」
 妻が本気の怒り声を上げるので、そこで止めておいた。
 万策尽きるとは、まさにこの事である。
 私は項垂れ、敗北宣言を出そうと覚悟したとき、
「お父さんが買いに行けばいいじゃん」
 長男が恐るべき提案をした。
 私は耳を疑った。いくら非常事態とはいえ、何と非情な作戦であろうか。
 まるで血も涙もない独裁者が発するような台詞である。
「お父さん、怖いの?」
 次男が指摘した。その瞳には紛れもない侮蔑が込められていた。
「な、な、何を言うか! この私が、たかが鰐ごときを怖れるわけがないだろう」
 私は断固として抗議した。
「じゃあ、早く行きなよ」
 次男は冷たい口調で言い放つ。
 まるで人の命を駒としか考えぬ参謀のような言い草である。
 ここで行かぬと言えば、私の威信は地に落ちる。
 しかし蛮勇を口にすれば、もう後へは退けぬ。
 どうすればいいのか。
「よろしい。行けと言うのなら、行ってみようと思わないでもない。私は断じて命は惜しまない。しかし出来る事なら無駄死には避けたい。私が鰐に食われてしまえば、結局のところすき焼きは食えないのだ。それでは意味がないだろう。これから家族会議を開いて、なるべく生還率の高い作戦を考えるのだ。立派な作戦を立案次第、私は颯爽とスーパーへ向けて出陣しようではないか」
 私は取り敢えず時間稼ぎに成功した。
 一家は卓を囲んで、「すき焼き大作戦」を真剣に話し合った。
 買物には行きと帰りがある。
 つまり私は二度も鰐の目先を通らねばならない。
 長男の案はこうだ。長男が鰐の頭めがけて南瓜を投げて、その隙に私が走り抜けて行く。
 即座に却下した。怒った鰐が長男めがけて襲い掛かる恐れがあるからだ。断じて私自身の身を案じたわけではない。
 次男の案はこうだった。私の得意な剣道で鰐を打ちのめす。
 却下した。鰐を避けようとする固定観念を脱したという点で、なかなかに秀逸な作戦案ではあったが、相手が丸腰なのに、こちらが武器を用いるというのは卑怯であり、私の美学に反していると感じたからだ。断じて私の腕に自信が無かったからではない。
 最後に妻が実にくだらぬ案を提示した。
 鰐と話し合い、我が家の庭から出て行ってもらうというのだ。
 無論、却下した。敵には敵なりの理由があって、そこに居て我々を威嚇しているのであり、話し合いで簡単に撤退するとは考えられない。そもそも私は鰐語が話せない。私は出来ないことは出来ないという実に謙虚な男なのだ。今にして思えば若いうちに鰐語を習得しておくべきだったと真剣に後悔していることだけは付け加えておこう。実に残念なことである。
 揃いも揃ってろくな案が浮かばないものだ。だが浮かばないものは仕方ない。
 すき焼きはまた来週ということにしようではないか。
 動かざること山のごとし。これもまた作戦である。
 根競べをして向こうがしびれを切らして出て行けば、こちらの勝利である。
 私がそう告げると、妻と息子たちは口を揃えて、
「すっきやき! すっきやき! すっきやき!」
 と狂ったように連呼し始めた。さらに、
「とっつげき! とっつげき! とっつげき!」
 と私に玉砕を要求するのだ。これは正気の沙汰ではない。
 私が何とか宥めようとするが、彼らは連呼を止めようとはしない。
 突然妻が立ち上がり、襖を開けて奥の部屋へ入った。
 それから妻は両手に竹槍を持って戻ってきた。
 あんな物が我が家にあっただろうか。
 妻は私に詰め寄りながら切先を向けて叫ぶ。
「すきやーき!」
 槍の先が私の胸に軽く触れる。
 私は慌てて飛び退る。
「とつげーき!」
 また槍が触れる。
 再度、私は後退る。
 もう一度同じ事を繰り返した後、踵は空を踏み、私は縁側から庭へ転げ落ちてしまった。
 私は尻餅を突いたまま慌てて後ろを振り返る。
 思ったとおり、そこには鰐の大きな口があった。
 私は大きな悲鳴を上げて這いつくばりながら鰐を避ける。
 鰐の顎は空を切った。
 私はひいひい言いながら、何とか立ち上がって前屈みの不格好な姿勢で門へ走る。
 赤い鰐は四本足を使って猛然と追いかけて来る。
 門の閂に手を掛けて外そうとするが、焦って手が震えるばかりでなかなか上手くいかない。何故、こんな簡単な事が出来ないのか。がちゃがちゃという金属音が余計に神経を圧迫する。後方からは、どすどすと鰐の重い足音が迫り来る。
 私は門の上部に両手を掛けて力一杯身体を押し上げた。ぶら下がった足を喰われはしないかと心配したが、間一髪で門を乗り越えることができた。
 私は息を切らして後ろを振り返る。
 黒い金属棒の隙間から、鰐の憎々しげな顔が見える。
 これ以上追って来ないのだと分かると、俄かに勇気が湧いてきた。
「どうだ、この鰐め! おまえなどにこの私が負けるわけがなかろう! おまえが涎を垂らしている前で一家全員で美味い美味いと肉を食ってやる!」
 私は帰りのことも忘れて居丈高に叫んだ。
 鰐は悔しそうに、がちがちと歯を噛み鳴らす。
 言いたいことを言ったあと、私は勇んで大股で歩いてスーパーへ向かった。見知らぬ町の見知らぬ道を辿りながら、しかし迷うことなく目的地に到着した。
 たくさんの車が並んでいるのに、全く人気の無い駐車場を抜けて入口を目指す。
 自動ドアを潜り早足で肉売り場へ向かう。
 店内も完全に無人だった。私が床を踏み鳴らす音だけが反響する。
 これほど苦労したのだから、一番高い肉を買ってやる。
 そこでふと、あることに思い至った。
 大きな肉の塊を買って帰れば、それを投げて鰐の注意を逸らすことができる。その隙に私は家の中へ駆け込めばよい。憎らしい敵に肉を投げ与えることは腹立たしい事このうえなかったが、これも作戦である。弾薬を惜しんでいては勝利はおぼつかない。
 おあつらえ向きにローストビーフ用の馬鹿でかい肉塊が、でんと真正面に鎮座していた。どう考えても我が家で使う肉よりも高くつく。何故に私が鰐に大盤振る舞いしてやらねばならないのか。やはり腑に落ちない。
 私は頭を振った。尊い勝利のためである。
 私は肉を入れた籠を提げてレジへ歩いて言った。
 つい先程まで無人であったのに、どこからか店員が現れてしっかりと金を要求した。
 全く腹立たしいことこのうえない。
 いかにもパートだという風情の小太りの中年女だった。
「すき焼きですか」
 女は口元を歪めてにやりと笑う。
「すき焼きで悪いかね」
 私はむっとして言い返す。
「悪くはありませんが」
 女はやはり嫌な含み笑いを交えて言った。
 私は万札二枚を投げるように渡し、釣りも受け取らずに店を後にした。
 人の居ない町をどこをどう抜けたか分からぬままに我が家へ帰り着いた。
 門の所に鰐は居なかった。
 私は淡い期待を抱きつつ、門に顔を押し付けるようにして隙間から左手にある庭を窺った。残念なことに鰐はまだ居た。図々しくも我が家の庭の池に浸かり、実に気持ち良さそうに頭だけをぬっと出して縁に下顎を乗せていた。
 今なら正面の玄関から家の中へ飛び込めるかもしれない。
 しかし鍵がかかっていたら大変だ。悠長に鍵を鍵穴に差し込んで、がちゃがちゃとやっていたら、私は間違いなく鰐に食われてしまうだろう。しかもあの妻の性格を考慮に入れると、鍵のかかっている確率は九九・五パーセントほどであった。成功率は〇・五パーセント。尊い我が命を賭けるには、あまりに分が悪すぎる。
 私は当初の作戦に立ち返り、門を開けて堂々と庭へ入って行った。
 鰐は瞑っていた目を開いてぎろりと私を見据えた。
 太い前脚を池の縁にかけ、のそりと全身を水から揚げる。
 私は慌てることなく買い物籠から紙に包まれた肉塊を取り出した。
「ほうら、こいつをくれてやる」
 私は肉を放った。
 鰐は四肢を交互に素早く動かして肉の方へ駆け寄ってゆく。
 その隙に私は縁側から家の中へ駆け込んだ。
 感無量である! 尊い勝利の高揚感が我が胸中を満たしてゆく。
「すき焼きだ!」
 私は買い物籠を叩く掲げて叫んだ。
 妻も子供たちも目を潤ませて、
「すっきやき! すっきやき!」
 と叫びながら私の周りを踊りながら回った。
 どこか見知らぬ土地の見知らぬ部族が舞うような奇妙な踊りだった。
「さあ、おまえ。鍋を用意しなさい」
 私は妻に向かって言った。
 妻は買い物籠を受け取って、踊りながら台所へ去って行った。
 ぐつぐつと煮立つ鍋から、もうもうと馨しい湯気が立ち昇る。
 私はさっそく肉の一切れを箸で摘んで器に入れて卵を絡めた。
 それから庭に顔を向けて、これみよがしに肉を口に頬張って見せた。
 しかし鰐は先程の豪勢な食事に満足したのか、うつらうつらと居眠りしているではないか。
 私はどこか釈然としない思いで食事を続けた。

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