今回は準助動詞の誤用によって「ら抜き言葉」が作られるという説についてお話します。可能を表す準助動詞とは「れる」と「られる」のこと。一見似たようなこの2つの準助動詞も、くっつくことのできる動詞の種類はきっちりと分けられています。
「れる」は五段活用につきます
準助動詞「れる」は五段活用、あるいはサ行変格活用(する)の未然形にくっつきます。五段活用「変わる」を例にとると
五段活用「行く」を例にとると
ですが、五段活用の多くは以前にも説明したような可能動詞が作られているので、この言葉を使う人はもう稀です(関西ではまだけっこう使っている人もいました)。「行かれる」は現在では一般に「行ける」と言いますね。サ行変格活用「する」の場合は
となります。これは今でも普通に使う用法です。
「られる」は上一段活用・下一段活用につきます
準助動詞「られる」は、上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の動詞につきます。
上一段:「見る」の未然形「見」+「られる」 = 「見られる」
下一段:「食べる」の未然形「食べ」+「られる」 = 「食べられる」
カ行変格:「来る」の未然形「来」+「られる」 = 「来られる」
のような形になります。
準助動詞のルールを破ります
本来なら五段活用にしかつかない「れる」を上一段活用・下一段活用に適用してしまうのが「ら抜き言葉」であるという説があります。以前にも申しましたように、こばとはこの説をあまり信じてはいませんが(江戸時代あたりの変遷の仕方に無理があると感じられます)、ともかく説明しておきます。
上一段:「見る」の未然形「見」+「れる」 = 「見れる」
下一段:「食べる」の未然形「食べ」+「れる」 = 「食べれる」
カ行変格:「来る」の未然形「来」+「れる」 = 「来れる」
とにかく、もうどんな動詞でも可能を表す場合は準助動詞「れる」で統一してしまおう、という感じですね。
姉だって間違うことはあるのです
プライドの高い姉はいつも完璧な日本語を話していると思っていますし、「ら抜き言葉」を使うことなんて今後千年先にも有り得ないと豪語しておりますが、やはり生き物ですから間違いだってあるのです。つい先日、姉と電話で話していたとき、
「こうお互いに離れて住んでいると、会いたいときに会えないのが不便よね。こばとも好きな時にこちら(札幌)に 来れる といいんだけど」
「あれ? 姉さん今、来れる って言わなかった?」
「何言ってるの? 私がそんな品のない言葉を使うわけないでしょう?」
「えー!? 言ったよー。絶対に言ったー」
「言ってないったら!」
「言ったのになー」
「姉に対して、その口のきき方は何ですか!」
姉はとうとう怒りだしました。これ、逆切れっていいません?
姉は滅多な事で自ら過ちを認めることはありません。口にこそしませんが
「私が世界で一番知的な生命体なのよ、ほほほ」
とか思っているんですよ、きっと。こんなこと書いたらまた怒られるんだろうけど。